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■   不昧公について

不昧公
不昧公像 

 松平治郷(1751年2月14日~1818年4月24日(宝暦元~文政元)号不昧)後は不昧と記述)は松江藩松平第7代の藩主で、初代直政は家康の孫にあたり将軍家とはきわめて近い親藩大名です。

不昧の生きた時代背景
 江戸時代後期、武士中心の時代から実質的に経済、文化が町人中心に動くようになった時代である。8代将軍吉宗が亡くなり、10代家治の元で田沼意次が米経済だけに頼るのではなく、台頭してきている商人の力を利用し、商品経済を発展させ、幕府財政の立て直しをはかる時代となった。しかし賄賂の横行、天明の飢饉による農村の荒廃、百姓一揆、打ちこわしの続出する中で田沼は失脚。
 替わって11代家斉の元で老中松平定信は寛政の改革を行い、力を持った商人達の力を押さえ武士の面目復活をはかる旗本・御家人への借金棒引き令(棄捐令)、徹底した緊縮財政作、思想統制、風俗取り締まり等々、あまりの厳しさに江戸庶民は「白河(定信は前白河藩主)の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と揶揄した。改革は大奥の贅沢取り締まりにも及び大奥の策謀により定信は失脚した。商人抑圧政策は時代に逆行する(たとえば棄捐令は借金を棒引きされた旗本・御家人は一時喜んだが、以後商人達の貸し渋りにあい、帰って困窮するようになった)政策であったため結果的には失敗に終わった。

不昧の茶道修行
 不昧の幼少期は頭は良かったけど大変ないたずらっ子で、養育係の家老達が、お茶でも習わせて修行させないと大変なことになるということで、お茶を習わせたと言うことになっているが、実際にはこの当時身分の高い人たちにとって茶道は必須の教養であった。
 松江藩も例外ではなく直政作の茶杓が伝わり(『山陰茶道史考』山野邊慶一著)宇治の茶師上林家から送られた茶に「一の白」の銘を与えている。2代綱隆の時、萩の毛利公に願って萩の陶工倉崎権兵衛を召し抱え楽山に窯を築きお庭焼きとして茶陶を作らせ、現在に続く楽山焼の基を築いている。
 不昧は幼少のころ、雲州茶道頭正井道有(遠州流)に付いて学び、京都から千家流谷口民之丞を呼んで点前を見、17歳の頃三斉流の荒井一掌に習った。藩主になった翌年18歳の時、正式に将軍家の茶道師範であった石州流伊佐派の伊佐幸琢に入門した。
 石州流を学んだ理由は、不昧が家康直系の子孫藩主であり、伊佐幸琢が幕府の数寄屋頭として天下を風靡していたためであるが、不昧は熱心に茶道を研究して石州流が最も利休の侘び茶を受け継いでいるのを理解し、さらに研究を深めていった。
 一方、幼時から儒学を学んでいたが19歳の時禅に志して、麻布の天真寺の大巓和尚を師と仰いでから生涯禅の道を求めていき、「茶禅一味」の境地を開いていった。不昧の号は大巓和尚から与えられたもので、公はこれを気に入り代を子斉恒に譲った後は専ら不昧の号をつかった。 
 不昧二十歳の時の著書『むだごと』には、茶道は身分相応に「足を知る」知足の道を身につけるものであり、これによって貪りの心を捨て、心は落ち着き不平不満は解消して心落ち着いた満足の境地、これを得るのが茶道であり禅の心であると書いた。
 当時の茶道界は華美に走り道具に凝り世間からはよく思われていなかった。不昧は利休の求めた草庵の侘びちゃに帰ることを強く求めていった。
諸流の中から利休の流の残っている良いところを自らの石州流に取り入れ、その無駄のない簡素と思える点前はやがて江戸でも評判となっていった。やがて江戸では「雲州流」といわれ諸侯や富裕な町人に不昧を師と仰ぐ者もでて人気が高まっていった。

道具の蒐集
 不昧と言えば道具の蒐集家としても有名であるが、「藩政改革で百姓町人から搾り取った財力で名物道具の蒐集に走った悪大名」という書き方をされた時期があった。
 その説は現在では完全に否定されている。藩政改革が成功し財力があった事は確かであるが、金に飽かせていたずらに買いあさったのでは決してない。
 不昧が家督を継いだ年、松江藩は財政破綻状態であった。松江藩は1767(明和4)年から1840(天保11)までの73年間の財政記録を克明に書き残している(『出入捷覧(しょうらん)』)。これによると蒐集の費用は藩の金蔵から不昧の思い通りに支出できたわけではない事がわかる。江戸藩邸の費用は公費(公事方費用)と私費(勝手元費用)に分けられており、蒐集は勝手元費用の中でやりくりされた。たとえば現在国宝となっている「薗悟禅師墨跡(えんごぜんじぼくせき)」は相場2,500両のところを一時金1,000両、毎年扶持米30俵という年賦払いの条件で入手しこの支払いは明治維新前まで続いている。
 武家が衰退していくとき、多くの茶道具が散逸していく状況を憂え、「名器は天下の宝であり、一人、一家の宝であってはならない」という考えで蒐集が始められた。
 『出入捷蘭』は不昧が家督を継いだ時にたまっていた借財50万両を完済するまでの記録である。他藩の多くが多額の借財を踏み倒した中で松江藩は利子免除の上元金を50万両を73年年賦償還した。このような条件下での名物蒐集であった。 
 これは単なる蒐集ではなく、不慮の災いに備えて「名と物とのかたしろ(本物の代わりになるもの)をのこさんが為」また、「諸家秘蔵の名物は天下古今の名物であって一人一家一世の名物ではないので、広く茶人の協力によって公開したい」為に『古今名物類聚(るいじゅ)』18巻を著述して自身の蒐集品をはじめ、茶道に関わる名物名器を他家の所蔵品についても大名物、名物、中興名物などの呼称とランク付けをして発表している。
 明治政府が国宝制度を作るとき伝統文化の中で、ただ一つ総合芸術であった茶道の世界に焦点を絞ったが幕末の戦乱で大切な器物などが散逸したり消失したりしていたので政府の苦労は大変だった。このとき大きな参考になったのが不昧の書いた『古今名物類聚』であった。昔から茶室を彩った器物類が丹念に挙げられ、分類方法、記述内容が正確だったことから文部省の技官たちを驚かせたという。その後に書いた『瀬戸陶器濫觴(らんしょう)』も同じ目的で書かれている。
 不昧が蒐集した道具類の一切を嗣子齊恒(なりつね)に譲る際に書き遺した『道具帖』も含めて不昧の著作には研究心、鑑識眼が光っており、不昧の名器、名物に対する保存、保護という使命感がなければ出来なかったことである。
 今日私たちが国宝、重要文化財となった茶道名物の類を鑑賞出来るのも不昧の蒐集と研究、その体系化、保存、保護に細心の注意を払ってきた結果である。
 
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